海外のツアー登山の経験はあるものの、クライミングが初めて、という新人のための岩場でのクライミング講習となった。
エイトノットから始めて、4, 5級の岩場歩きをしてもらう。
商業登山では、ハーネスを装着するような登山でもエイトノットの結束すら他人任せなのだという。
こちらもいろいろな新人を見てはきたが、やや、目からウロコである。
アルパインクライミングを行う山岳会では、里山歩きから始めて、地図とコンパスでの地図読み、テントでの生活技術、と順を追って知識と技術、経験を積み上げ、やがて、日帰り登山を経て、南北アルプスや谷川山系などへのテント泊、縦走へと、難度をあげていく過程を経た登山者を対象とする。一人でテント泊縦走がこなせるようになり、単独でも縦走するくらいが、アルパインクライミングを考え始める契機となるのが一般的だ。
これは、自らの力で登山を組み立てていくためには必要な過程である。
こうした下積みをしたくない、あるいはしなくてもよい登山を考えるなら、商業登山を選択することになる。
一部のガイド山行を含む商業登山では、登山の全体を自ら担うわけではないため、ピークハントという結果のみを重視することとなる。
これが外国の高所になると、金銭援助を得るためにスポンサーを探しました、など、さらに商業的な側面が加速され、それが登山の重要な側面だとマスコミも喧伝することとなる。そこに「女子高生」だとか、「最年少(長)」とか、「〇〇初」などの別の属性があるなら、広告となりうるので投資対象と考える。それが資本主義のカラクリである。だから属性にたいした投資価値がないと判断すれば、市場は見向きもしない。それは資本主義の価値判断であり、たいていの登山者はそんな価値体系とはまったく馴染まない登山活動に意味を見出している。
私たちの活動の意味や価値は、私たち自身が決める。安全に責任を持つのも自分自身である。
だが、そもそも他力本願の商業登山だから莫大な資金が必要になり、資本の論理に絡め取られるのであり、自力で先鋭的な登山を行いながらもマスコミの目に触れないクライマーは、自分で稼いだわずかな資金を頼りにしっかり結果も残している。単に目に触れないだけで、このような登山者は実はかなり多い。彼らは、そしてたいていの山岳会所属の登山者は、他者からの称賛を微塵も考えていない。あくまでも自分の中で価値が完結している。「自分でもできた」など、自己愛の表出はせず、成功にせよ失敗にせよ結果に対する意味づけはあくまでも自己の内部に留めている。自分の成長は外に向かって宣伝することではなく、登山で確認することだ、と考えているからだ。
山岳会といえば、やはり、後者のような登山者を育てる組織なので、本質的に成果のみを取り上げて照射する資本主義優先の考え方とは相容れない。
商業登山にまみれてしまうと、どこかで他力本願に偏ってしまうので、単独行が自由にできない傾向もある。その人の資質が関わるのでやはり山岳会には馴染まない。もし、他者からの賞賛がなければ山に登る原動力とならないのであれば、非常に危うい。自らの限界を見誤ることにつながってしまうからだ。
どちらを取るのかは個人の選択ではあるが、山岳会はいくら小さな会でも組織である以上、山行管理を行うため、実力が伴わないと会が判断すれば、ツアー登山であっても中止勧告を行うので留意して欲しい。
登山は、難度があがると知識、経験、体力、技術、判断力のどの要素が欠けても危険に晒される。商業登山では、知識、経験、技術、判断力を金銭で買うので、必要なのはある程度の技術と体力のみとなる。山岳会での登山を志すなら、どの力も同程度に必要となる。知識だけでも登れないし、体力だけだとよけいに危険になる。技術だけでは足りないし、経験がありすぎて困ることはない。判断力はパーティーで補完するものだし、知識も補える。いうまでもなく、どの側面も即成させるのは難しい。努力すれば体力はつきやすいが、判断力や技術は向き不向きもあるため、アルパインクライミングに適していないケースもありうる。自分を客観視して、焦ることなく、ぜひ総合力を強化していただきたい。そして、登山が自分にとってどのような活動であるのか、今一度吟味していただきたい。なにも高尚な哲学を要求しているわけではない。ただし、登山を外部に対する自己表現、他者に向けて自己愛を満たす補填を促す行為と考えているなら、一度立ち止まっていただきたい。それが危険制御の第一歩となる。